※ 蚊が喰って大祓上がらず


昭和40年7月10日 月例祭



「此の方のことを生神、生神と言うけれども、此の方ばかりが生神ではない。みんなもこのようなおかげが受けられる」と。「神より上になるとは思うな」と。「生神とは神がここに生まれるということである」と。生神とは、神がここに生まれると。
 お互い信心をさせて頂きますと、多かれ少なかれやはり、その生神になる道を聞かしてもらい、または、みなさんが些細な修行というか、どんな修行でもなさっておられるというても、問題は「私はこのことのおかげを頂くために修行をしよります」というけれども、そのもう一つ奥のことを分からせてもらうと、やはり、生神になるけいこを神様からさせられておるのです。
 「私はどうでも病気を治してもらわんならんから」「どうでも、ひとつ、このことの成就、借金払いなら、借金はらいできなならん。借金払いのおかげを頂くためにこんな修行をさせて頂いておる」というけれども、もう一つ向こうの神様のお心の中には、そのことを通して生神になる道を教えておられるのです。いつも自分も気づかないなりに信心させて頂いているのだから、生神にならせて頂く御用をさせて頂いていることが言える。
 皆さん、ここのところの「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」と、こうおっしゃる。本当に、信心は親に孝行するも同じこと、私どもが、この世に生を受けさせて頂いて、生神様なら、そのままの姿で、ほんとの丸裸でこの世に生を受けてまいります。とkろが、もすでに、めぐりのせいですか、いわゆる、欲を覚えます。そして、うそこには我情我欲が、もういっぱいになってまいりましてから、そして、結局は我情我欲のために、自分が苦しまなければならない。
 皆さんが、様々な難儀があるんですけれども、その難儀は私を育てるためにある。ですから、我情我欲を取ったら、有り難いんだすけれども、一遍に取れないところに難しさがある。それを取っていくところに値打ちがある。教えがあるのです。ですから、私どもが様々な難儀な問題でも、お取り次ぎを頂いて、お願いをしたら、そのところを神様は教えて下さるのです。
 私は今日ここに、アメリカの鶏だというてお供えを頂いた。アメリカの鶏と日本の鶏はおんなじかと思ったら、違うんですね。お供えをさせて頂く時、もう、絞めてからお供えをすると言う。そんなむごたらしいことしなさんな、そのままがんじがらめにでもいいから、くくってからビニールの風呂敷きに包んでから、お供えしなさいと言うてさせました。
 とにかく、アメリカの鶏は日本のより、身がやわいそうです。鶏の鼻が高いとか、目が青いとか、どうか、やはり違う。
 あのがんじがらめにくくられて、例えば、あのお供えをされてる鶏を見てから、ただ今申しましたようなことを思うのです。私どもがこのまま神様の前にお供えさせて頂いてよいような、今日はお供えする人たちが、その鶏を何遍もきれいな水で洗い清めておられるのですよ。
 私どもも清めて、神様にお供えさせてもらう、神様が頂きなさるなら、もう、神と一緒になる。せっつかく清めたのが、もう、バタバタしてから、おそらく、御神前も何も荒らしてしまうでしょう。やはり、くくっとかなければできないわけです。そこに、くくる者の悲しみもあれば、くくられる者の苦しみもまたあるわけです。
 けれども、結局は私ども、神様の前にお供え出来るような、このごろは私はまんまんしゃまのごとなっとるけんで、○○○というようなことを申しますけど、問題はそのまんまんしゃまになることなんだ。私どもがそのまんまんしゃんにならせて頂いた時が、初めて神様にお供えが出来るような私、身も心も神様にお供えが出来る。そこに、神様とおんなじ働きが出来る。いわゆる、それを「我情我欲を離れて」とこう言う。そこには真の道が分かってくるのであり、「我が身は神徳の中」とはこういうようなところであろうかという、おんなじこの世を苦の世苦の世界という、そのおんなじ世界をある人は苦の世界と言い、ある人は神徳の中に生かされてある喜びを感じさせて頂きながら、生活させてもらう。
 そこで、みなさんが様々な難儀によって、手出し、足出しされておるということになるのです。
 今日、すぐ上の婆しゃまが、あちらの奥さんの車で、いつも月次祭にお参りして見えるのです。お話をしたことなんですけれども、今朝から、婆しゃま、私はこげなふうなお知らせを頂いた。私の若い時分に流行った歌ですが、知とられますか、文句を申しましたら、ああ、知とるどころじゃありません。昔、私どもの少年時代、黄緑江節というのが流行った。その黄緑江節の替え歌ですね。こんな文句の歌がございます。「鳥ならば、飛んで行きたい、あの家の屋根に、木の実茅の実食べてでも、焦がれて鳴く声聞かせたら、よもや、いやとは言われまい」というような文句でした。ああ、そうです。そんな文句の歌がありましたと言うてから、婆しゃまが知ってありました。
 あの家の屋根に飛んで行きたい。だから、鳥になりたい、ああ、翼が欲しいということになるのです。どうでしょうか、翼を与えたら、どういうことになるだろうか。「ここに、金が百万円あったなら」と、百万円その人に与えたら、どういうことになるだろう。とにかく御造営なんかでも、ほんとに、ここにあるものが、ありさえすれば百万円が二百万円でもお供えするばってん、と思いよる。ほんとに思いよる、もう、切実に思いよる。持ったなら、そういうわけにはいかん。そこのにきが間違いよるわけです。
 ですから、私どもがほんとに持たせて頂いた時にです、思っておったことが実行出来るようなおかげ、そういうおかげを頂くために、私どもが一生懸命に信心生活をさせて頂く。みなさんも思っておられるでしょう年末の宝くじが当たったならば、例えば、四百万円なら、三百万円お供えする。百万円は借金払いにさせていただこう。いいや、もう四百万円みんなお供えそるという人があるかも知れない。思うておることは切実、それがおかげの受けられる道なのです、ほんと言うと。
 そこで、どのような信心をさせて頂くかというと、たとえ、木の実茅も実食べてでもというものでなからなければいけん。寝るとは当たり前に寝ろごたる。食べるとは当たり前に食べろごたる。着るとは当たり前に着ろごたる。そげんまでせんでん。切実さというてもです、木の実茅の実食べてでもというようないわゆる、焦がれて鳴く声を聞かせる時に、私は神様に通うことが出来ると思うのです。
 ここ三、四日、日田の佐田さんの弟さん中野さんが、ここで修行させてもらいよります。だから、私が二、三日の間、ここの雰囲気を分からないかん。本気で、あなたが信心のけいこをさせてもらうなら、私も一つ本気になって教えよう。それは、ここに何百人通うて来る人たちの中に、本気というても、ここに泊り込みでけいこをするという人はいない。だから、他の人たちに教えないようなことを、私が教えようというて、私がぼちぼち言うんです。ところが、座りきらんです。十分ばかり座ると、足はモジモジして、もう、いつ行っても足をこう抱えて座とる。いつ言おうかと私は黙っとった。昨日から、座るけいこをしなさいと言いよる。だから、十分でもいいから、足がしびれだしたら、立ち上がって散歩しなさい。そして、また、座りなさい。天津祝詞をこのくらいの時間で覚えなさい。大祓いも一行ずつ覚えていきなさい。先ほどもご飯頂く時に申しました。朝もシャツで出て来ますから、御神前に出る時だけは上着を持たないならば、開襟シャツでもいいから、上からシャツを着ておいで、椛目で昔の信心を頂いている人ほど、ぴしゃっと背広を着込んで来とる。この暑いのにばかんごたる。それは涼しい気持ちのよい気持ちで、御神前に出たがどのくらいよいか分からん。私もそんなふうに感じた時代があった。光橋先生あたりも、それを感じたらしいい。それこそ夜中の御祈念なんか真っ裸で御祈念したと言われる。だから、そげなことではおかげは遣らんとはおっしゃらない、この神様は。ところが、こちらの心が、やはり、紋付き袴付けたが一番有り難い御祈念が出来るということに結論が出たというようなことが、先生の書いておられる書物の中にございます。汗ぶるぶる流して、ばかんごたる。このへんのことは、微妙のことですから、なかなか説明が難しいのですけれども、このへんは体験がものを言うわけですね。
 四神様のところに、ある先生がお参りになってから、「金光様の信心には、こうせんならん、ああせんならんというような難しいことはなか」仏教の五戒とかキリスト教の十戒とかいったような、ああしてはならない。こうしてはならないといったようなものはない。おかげを頂きたいならこういうような心持ちになれよというふうにとは教えられているけれども、してはならんとはおっしゃてはいない。十二箇条の御神誡を頂いても、やはりそうなんだ。だから、御神誡の誡の字が違う。言偏が入っている。ひとつのお道の誡がある。十戒とか五戒には言偏がない。
 「四神様、お道の信心は結構な信心でございます」。「表行よりは心行をせよ」とおっしゃる。「火や水の行より家業の行」とおっしゃる。心行で出来るんですから、もう、家で仕事しながらでも行でございますから、もうお参りせんでもいい。表行より心行とおっしゃるから、形の行をせんでもよいから楽じゃとこうなるわけですね、心の中でしよる。お参りせんでも家で家業を一生懸命しよれば、それがもう、修行になりよる。こんな楽な信心はございませんと申し上げて、四神様がおっしゃった「表行の出来ぬ者に心行が出来るか」と。
 暑いからというて、ランニングシャツでお参りするようなことで、本当の信心が出来るか、そういうことで心行が出来るか、今日は上着を着ていない人にあてつけて言いよるとじゃないけんで、どうぞそういう私傷な心が起こったら、そうなさったら、はあ、なるほどがつくだろうと思うです。
 昔、「夕涼み よくぞ男に 生まれけり」という句があったんです。男の人たちを見てごらんなさい。背広着てネクタイをぴしゃっと締めてござる。女の人たちは、ほんに脇の下どん身ゆるごたるとば着てござる。世の中反対ですよね。よくぞ女に生まれけりと、また、それが今の時勢でもあるね。
 例えば、そういう理屈を言わずに、こうさせて頂くことが本当ということをさせて頂く。いや、そうさせて頂かなければおられないという心。思いはある。思いはあるけれども、木の実まで食べんなんならば、茅の実まで食べんなんならんなら、とても、私どんにはでけん。それだけ違う、思いが。木の実茅の実食べてでもいとわないというところ。これはね、一つ踏ん切りをつけるということ、そういう形の上でも。そういう例えば、ちょっとしたことが、いわば、しようと思えばすぐできるようなことでも、出来んくらいなことで、本当の今日、私が言う、私自体を身も心も神様の前にお供えさせて頂いて、いわゆる、神様と私どもがおんなじもの。神は我が本体の親であるという実感。私の思いはそのまま神様の思い。神様の思いはそのまま私の思いというようなところまで、ここまではどうでもおかげが受けられるとおっしゃるそこの。ここに神が生まれるということなんだ。生神とはここに神が生まれるということ。そういうおかげを頂かせて頂くためにです、もし、そういうおかげが受けられるならばです。そいう道があるならばです、それこそ木の実茅の実食べてでも、一度は痩せ細っても、そういう道を一遍体得させて頂きたいということ、それはどういう真かというとです、私どもが本気で改まらせて頂くということ、本気で磨かして頂くということ。本気でその問題に取り組んで、その問題を持って磨かせて頂く砥石とすること。自分が気づかせて頂いたなら、これならおかげがうけられんというものがこれにあったら、本気でそれに取り組んで、それを改まらせて頂くおかげを頂くということ。そういう例えば改まって磨かせて頂くというところに、我が心が神に一歩一歩浄化して行くのであり、神に近づくことが出来るのである。そういう素直な、この改まるという、磨くというその問題に取り組んだ時です、方やそんなことというて辛抱がでけんようで、その改まりが出来るようなことは絶対にないということです。馬鹿のような話、私の子どもたちが誰も言いはしません、絶対テレビを見ないのです。最近お相撲があっておりますがね、お相撲の時だけ、こまかつが来てから付けてやる、普通のときは鍵は自分が学校に持って行っておる。誰にも見せん。そうして、相撲なら相撲がありよったっちゃ横見でもしません。もう、見らんと決めたら見らん。そんなことは馬鹿のごたるでしょうが、この暑いのに背広着込んで、ネクタイ締めて、ぎっしり、こうやって詰まって汗ぶるぶるになるということは、問題はそのことだけじゃありませんのですよ。一時が万事にそうなんです。お日参り一つでけん、こういう修行一つがでけん。なるほど、理屈を付ければ、「此の方の行は家業の行」だから、心行だから、お道の信心は。ところがです、心行だから、心行だから、家業の行だから楽だというようなことでは、ほんとのお道の信心は分からない。いや、そういうようなことでは肝心要のそれに取り組んだ時ですら出来ないということ。だから、それのためのけいこなんだ。
 足をがんじがらめに括ってお供えしておくということは殺生なごとあるけど、わたしがこうおかげを頂かせて頂く前に、ただ商売の繁盛のおかげを頂きたい、その一念に燃えておかげを頂いておった時代、ある正月に神様からお知らせを頂いた「大きな亀」を頂いた。鶴亀の亀、その亀が荒縄でがんじがらめに括られてある。それを私、はっきり心眼と自分でその時知らなかったけれども、あれを今から考えて見ると御心眼だった。亀ががんじがらめにくくられておる、そんなものは見たことも聞いたこともない。おぼろげに分かった「ははあ、これは窮屈になるということだろう、がんじがらめになるということは、括られとるから」。
 もう、本当にその年から、右と願えば左、左と願えば右というような一年間であった。その翌年のやはり、元日だった。大晦日の晩から御祈念し通しておかげ頂くんですよ。そしたら、一年前に頂いたその亀をやっぱり、御心眼に頂いた。ところがです、誰かがそのがんじがらめに括られておるところの亀の荒縄をですね、プツプツと鋭利な刃物で切っていくところを頂いた。亀が喜んだ、とたんに足をこう出して立ち上がった。とたんにです、手と足を出したとたんいです、また、その刃物でです、手と足をプツプツと切ってしまわれた。もう、いよいよ手を出そうと思うても手が出せん。足を出そうと思うても足が出せん。それがですね、お願いしよるとですね、こう御祈念しよると、誰かこう足をポーンと出しますもん。足ばこげなふうにだしますもん。なんだろう、初め分からんだったですもん。今、足が出てきたがなんじゃろうかと思うて御祈念しよった。今から考えてみると、今年の今度の商売は買うたっちゃ足が出るぞということだろう。まあだ、出る足でもあればよか方ですよ。まだ、切れとらんのだから。    悲観することは、なあんもいらんです。そのことがめぐりのお取り払いになることならば、まあだ、足が出るぐらいのことなら、ほんとにお礼申し上げなならんです。
 私の場合はです、手も出なかった、足も出なかった出そうにも、もう、切ってしまわれた。そしたら、首だけをこう出してから、こうしているところを頂く、誰かが餌を持って来てくれるということでしょう。それから、こういうことにだんだんならせて頂いて、私がちゃんと、畳半畳のところに座っておけば、みんながめめて食わせるようにしてくださる。足が痛いといえば揉んでくださる。着物を着るといえば、別に  なかばってん、さあ、後ろから掛けてくれたり、帯を取ってくれとったりというようにおかげを頂いておる。
 いくらお金がいるから、   ちゃあんと神様が持って来てくださる。食べ物でも同じこと。その、例えば、切られる神様の思いも大変なら、切られる方も大変なのだけれども、やはり、私の心をです、「神は我が本体の親ぞ」というような尊い信心を分からせて下さろうとするところの働きなのだ。
 中野さんが、例えば、三十になる。三十の間に、なかなか商売が名人なんだ。酒屋さんですよ、私と同じこと。けれども、一つの病気を持っておる。その病気のためにいつも失敗する。そこで、過去の今までのことは一切合切忘れてしもうてから、改めて、本気で信心のけいこをさせて頂きよる。言わば、神になるけいこをさせて頂きよるとこうなるわけです。
 ですから、私が、その拝み方から、こんなことまで干渉せんでよかろうというようなことまで干渉し、また、これからも大いに干渉させて頂こう。そげん窮屈な、もう足が痛かならあぐらでよか、それの方が楽だ。けれども、それが辛抱でけんごたるようでは、中野さん、今までのことをです、  出すことも出来ない。改まることも出来ない。それが出来んようなことでは。これは中野さんだけのことではない、お互いの場合だって同じこと。このくらいのことが出来ずに、神様がほんとにさせて下さろうというところの修行が出来るはずがない。その修行は、なるほど、何にもならんかも知れない。汗水ながして、上着を着ても何にもならんかも知れないけれども、その遣り抜かせて頂くところの忍耐力、辛抱力、神様に向かう思いをそういうふうに現していける人であって、私は本当のことが出来ると思う。ですから、みなさんがみんな朝参りをしてという意味じゃないんですよ。せめて、月の内五日なっとん朝参りをしなさい。せめて、月の内一週間なっとんお日参りをして来なさい。一週間続けて参ればお日参りですよ。朝参りの味わいも知らんようではいけないということ。一生懸命にお水を被って、毎朝毎朝、それこそ、金光様の信心ちゃ、どうしてあげな修行せなならんじゃろうかというような信心も一遍通ってみて、神様はそれが願いじゃない、そこから分からせて下さるものを、神様は求め給うのである。
 朝参りを一週間とか、お日参りは五日間と決まったことじゃないのですよ。それがだんだん、自分の身に付いてくらば、有り難いことなんですから、出来るに越したことはありません。お道の信心はまず、何というても座ることから、だから、私が座ることを覚えなさいと、中野さんに言うておるように、痛いぐらいにさせて頂いてもよいけれども、もう、最近の私どもなんかは、正座せろというのと、あぐらをかくのでは、正座の方がかえって楽なんです。難しくはないですよ。今、御神前に出たら、大きな蚊が止まっとる。叩こうと思ったら、逃げました。昔なら、絶対そんなことはありません。噛まれるままに、ほうからかしとるでしょうね。だから、それぐらい信心は馬鹿のごとあるけれども、そういう辛抱でもさせ抜かせて頂いて、一晩中させ抜いたでしょうね。
 もう、雨の降った須崎の向こうは高木履がずぶずぶ入るような広場だった。一晩中、大祓三巻ならい大祓三巻と言われると、「今日は大祓三巻で、はよ寝られるな」と思うと、「その代りに顔を覆うな」と神様が言われる。ところが、私が御祈念しよるところは、それこそ、電気でも点けたらこれにいっぱい蚊が付くんです。たった三巻、いや、一巻の大祓いがよう上がらんのですから、間違える、また、間違えた。また、お百度踏んで向こうのところまで行って、帰って来てまた大祓いを上げる。けれども、蚊がこうやってがんばっとるでしょうが、だから、また、間違う。とうとう夜が明けて来た。
 何のために神様がそういうことを、求めなさらなければならんのか。言わば痒い思いをさせたいからだ。決してそういうことじゃない。そして、今日申しましたようなことをです、分からせて下さろうとする。そのくらいの辛抱がでけんようなことではです、肝心要のこのことが出来んのだ。そういうふうになってまいります時に、表行を生かすか、心行なんですけれども、本気で心行させてもらう。ほんとに家業の行が行としてなされるようなおかげを頂くために、お日参りの行も、または、表行もさせてもらわなければならない。
 神様と私どもが一つになる。あなたの仕事がそのまま神様の仕事なのだ。それこそ、今お金のない人は、百万円の宝くじが当たったなら、そのままお供えしたいというような、切ない思いは持っておるけれども、それがなかなか、おいそれとは、神様はおかげは下さらん。それは木の実茅の実食べてでもといったような切実さが、まだまだ欠けておるからだということ。そうして、おかげを下さったその暁には、それが億万の金であろうが、あなたの御物であるというような信心です。そこにです、もう自由無碍のおかげ、心の中の自由自在のおかげ、蚊が止まったら追うたもよい。暑いならば上着も取ってもよい。痛いなら横座りさせて頂いてもよい。そういう、私はみなさんがそれぞれに御造営のことについても思う人があるだろう。そのやらせて頂いている   もう一遍改めてみなければいけん。切実でなからなければ神様には通いません。もうほんなこと思うとる。もう、十万でも百万でも貸してくれるなら、そのままお供えしたいと思うとる。けど、その程度の切実さではだめだ。それこそ、木の実茅の実食べてからでもという思い。そういう切実さというようなものが
お互いの信心に欠けておるのではなかろうか。その切実なものが神様に通う。もちろん神様から通うて来るもの。それを私どもが御神徳と言う。「此の方のことを生神生神というけれども、みんなもこのようなおかげが受けられる」「生神とはここに神が生まれるということであって」、ここに神が生まれるというような、これが神様の喜びであろうかというような、これが神様の思いであろうかというようなおかげの頂けるおかげを頂いて、それがいよいよ育っていくところのおかげになっていかなければならない。
 何か、今日の御理解は分かったような、分からんような気がなさったんじゃないかと思うんですけれども、どうぞ、みなさんの日頃の信心でですね、私は決して、窮屈なことをみなさんに言ったわけじゃないです。それは、その人の信心がございますから、その人なりのものでよいけれども、もっと、今の信心にもっともっと切実さを加えてくるところのもの、ほんとに神様に通うもの、そういうようなものを工夫しておいでられなければいけない。私はいつも思う。誰が何と言うても、自分の心に現れておるところのおかげというものが、ね、そのおかげというものと、いつも見比べていく。そのおかげが希薄なもの、薄くなっていく、無くなってくる時に、例えば、どのような正確な信心が出来とるようであっても、それはほんなもんじゃない、やり直さにゃいかん。みなさんが願えども願えども、おかげにならないというならばです、今の信心ではいけないのだから、やり直さなきゃいけない。どこをやり直すかというところに、もう少し切実さを燃やさなければならんのじゃないかとこう思うのです。おかげ頂きましてありがとうございます。